しゃあぽさんとこが発端のヒゲ論争、盛り上がってるみたいです。自分もちょこっとカキコさせていただきましたが、難しい問題ではあります。
ターンAがカッコ悪いか否か。
放送当時から論争されてきたネタだけに、結論も色々あります。商売としては負け組なんでしょうが、このデザインを世に出したと言う意味はあったと思っています。
ガノタが起こす拒否反応は、長期にわたって展開されるシリーズものには必ずある保守性の一種で仕方ない一面もあると思います。水戸黄門とかサザエさんで新機軸を打ち出せないのと同じ理由ですね。
ただ、忘れてはいけないのはガンダムなる作品はそもそもマンネリ化していたロボットものと言うジャンルを解体する狙いで作られた事実です。
「反抗」または「抵抗」がキーワードであり、お約束に寄りかかることを良しとしなかった富野監督以下スタッフの情熱がフィルムに焼きついていることがこの作品最大の魅力ではないでしょうか。
その意味で、ターンAはレジスタンスとしてのDNAをデザインで体現した主役メカだと思えます。
基本のフレーム(RX−78)に様々なアイデアを付加する事で目先を変えてきた歴代ガンダムのデザイナー諸氏の苦労を否定するわけではありません。むしろある程度までの発展的展開と言うのはあってしかるべきですし、それを楽しんできました。
しかし、細胞分裂にテロメアの制限があるように基本フレームの改造には限界があります。
ターンAはまさにそんな時期に出てきたデザインだと思えてなりませんし、富野監督も「MEED GUNDAM」の中でそういった狙いを繰り返し語っています。
ただそれは全体よりも部分にこだわり、記号で物事を認識することに慣れてしまった人間から見るととても受け入れがたい革命だったかもしれません。正直自分も最初あのデザインを見た時には眩暈がしましたし(´Д`)
絵描きの視点で言うと、あのデザインは「人間を描くように描ける」不思議なMSです。MSと言うのは構造上人間とは関節の位置もプロポーションのバランスも違うので、その違いを認識できないと上手く描けません。ところがヒゲガンダムは人間を描くときと同じ方法論で描けます。多分これはガンダムとは縁の無い美術畑の人が見るとよく判るんじゃないかと。
そのようなデザインは、ヒゲなんかよりもよほど保守的な部分を刺激したというか癇に障ったんじゃないでしょうか。単にヒゲは「一番目立つから」スケープゴートにされただけで、仮にヒゲには見えない従来の頭が載った所で拒否されることには変わりなかったような気がします。
富野監督はそんなガノタの保守性まで計算に入れた上で、「踏み絵」としてあのデザインを世に出したのでしょう。
あのヒゲに拒否反応を示すのが、それなりにガンダムにこだわりのある人であり、逆にそういった目立つ判り易いツッコミどころには敏感なはずの一般人が気にしていない(気付きもしない)例を少なからず見ただけに、余計そう思えます。
Gガンダムと一緒で、「ガンダムと思わなければ楽しめる」実に意地悪なデザインです。純粋にSFメカとしてみたときに従来のガンダムメカには無いコンセプトが楽しいのですけどね。
「MEED GUNDAM」におけるシドじいさんのデザインを発想する時の過程も、アメリカ人らしいとてもプラグマティックな進め方で、その発想と日本側のギャップが大変プロジェクトXしていてドラマチックです。
日本人は「とにかくそういうメカがあって」と言うところから話を進めますが、アメリカ人は「そういうメカが実際にあるのなら」と言うシミュレーション視点でスタートします。
どちらが良い悪いではなく、全く新しい方法論がターンAには使われていて、我々はそれに戸惑っているという事です。
物語を通して自分はそれを楽しめるようになりました。物語上で機能しているのを見て初めてその真価が分かる。これはごく当り前なんですが、前情報で判った気になってしまう習慣が身についている私たちは最初の印象を余計に引きずってしまった。それがヒゲガンダム論争の始まりだったのではないでしょうか。
機能から逆算されるデザイン。このDNAは時間はかかってもきっと色々な所で芽を出すはずです。例えプラモが売れなくたって(ノД`)ターンAが遺したものには意味がある、そう思っています。